株式会社TYK Promotion
YO!YO!YOSUKE
人がやっていないなら、生んだ方が面白い。——名古屋から、エンターテインメントの新しい景色をつくる
両親を亡くして——「知ってもらう」ことが原点になった
Q. 現在の活動につながる原点は、どこにあるのでしょうか。
原点まで遡ると、中学1年生の時に母親を、高校1年生の時に父親を亡くしたことになると思います。
僕は一人っ子だったので、その時点で両親がおらず、代わりに母方の祖母がずっとお世話をしてくれていました。生活が苦しかったというわけでもありません。それに、両親がいないことをずっとネガティブに捉えていたわけではないんです。
ただ、もし両親が生きていたら、今のような道には進んでいなかったかもしれません。
両親が亡くなって、自分しかいなくなった。だからこそ、自分が人に知ってもらうことで、両親が生きていたことも含めて知ってもらう、というような思いは漠然とずっとあった気がします。
進路を自分で決められたことにも、少なからず影響していたと思いますね。
“みんながAを選ぶなら、自分はBを選びたくなるんですよね。”
褒められたのは「声」だった——みんながAなら、自分はBを選ぶ
Q. タレントやMC、スポーツDJにつながる最初の一歩は何だったのでしょうか。
学生時代はずっとサッカー部で、ゴールキーパーをやっていました。
Jリーグが開幕した頃にサッカーを始めた世代なので、当然「Jリーガーになりたい」という気持ちはありました。でも、プレーを褒められることはあまりなくて、なぜか声だけはすごく褒められていたんです。
学生の部活動でもレギュラーを取れなかったので、「サッカーを仕事にする未来は自分にはないんだろうな」と思うようになりました。
そこで残ったのが、「声を褒められる」ということでした。
もともと漫画やアニメが好きだったこともあって、「漫画・アニメ×声」という発想から、声優の専門学校へ進むことを決めました。
周囲は大学進学を目指す人ばかりの進学コースでした。なので、先生からは「お前、大丈夫なのか」と言われていましたね。
でも、そこで周りと違う道を選んだことが、今につながる最初の一歩だったと思います。
Q. 声優を目指していたところから、現在の道へ進んだきっかけは?
専門学校に入ってみると、「自分が本当に目指しているものは声優なのかな」と思うようになったんです。
僕は漫画やアニメも好きだけれど、ずっとサッカーをやってきた体育会系の部分もある。声優の養成所へ進むという一般的なルートに、どうしても自分がしっくりこなかった。
もともと天邪鬼なところがあって、みんながAを選ぶなら、自分はBを選びたくなるんですよね。
結局、養成所のオーディションも受けず、「地元に残ろう」と決めました。
その後、好きだったサッカーをきっかけにイングランドへ行きます。当時好きだったデビッド・ベッカムがいたマンチェスターへ、「とにかく現地に行ってみたい」という気持ちだけで、3か月留学しました。
ですが、英語は本当にできませんでした。でも、それでも行ってみました。
振り返ると、僕はずっとそういう選び方をしてきたんだと思います。
“「苦しかったですか」と聞かれたら、もしかすると「苦しんだことはない」が僕の答えなのかもしれません。”
マイクを持つ楽しさと、ZIP-FMへの憧れ
Q. 人前で話す仕事に惹かれたのは、いつ頃からですか?
イングランドから戻った後、英語を使える環境で働きたいと思って、当時名古屋・伏見にあったハードロックカフェ名古屋でアルバイトを始めました。
そこには、マイクを持ってお客様の誕生日を盛大に盛り上げる「ホスト」という役割があったんです。
それを見た瞬間、「僕はこれをやりたい」と思いました。
実際にマイクを持たせてもらって、お客様を盛り上げる。自分の言葉やパフォーマンスによって、その場にいる人たちが喜んでくれる。
そこで、人前でマイクを持つことの楽しさを知りました。
同じ頃、名古屋のエンターテインメントの世界を見ていて憧れたのがZIP-FMでした。当時はバイリンガルのナビゲーターが多く、洋楽もたくさん流れていて、本当に格好良かった。
「ここで喋りたい」と思ったんですが、自分の英語力ではまだ足りない。
それなら、もう一度英語を身につけに行こうと、再びマンチェスターへ留学しました。
“自分自身も音楽や照明と同じように、場内演出の一つだと考えています。”
14か国を巡って掴んだデビュー——「YO!YO!YOSUKE」誕生
Q. ZIP-FMでのデビューまでは、どのような道のりだったのでしょうか。
2度目の留学では約1年間マンチェスターで生活しました。
途中から日本人同士で日本語を話すことが増えてきて、「自分は何をしに留学したんだろう」と感じた時期もありました。
そこで、残りの期間はヨーロッパを旅しようと決めました。サッカーの試合や世界遺産などを目的地にして、約3か月、バックパックを背負って14か国を回りました。
一人で移動していれば、当然英語を使わないと生活できません。そうやって英語を使う環境に自分を置いて、日本へ戻りました。
その後、ZIP-FMのオーディションを受けて準グランプリをいただき、2005年にデビューすることになりました。
芸名をつけようと思った時、親からもらった「太陽のように明るい子供に育って欲しい」という想いを込めた「陽介」という名前は残したかった。
耳で聞いた時に間違えようのない「ようすけ」にしたいのと、なんか明るいノリを感じるネーミングにしようと思い「YO! YO!」と掛け合わせて「YO!YO!YOSUKE」にしました。ZIP-FMでも当時担当していたのがクラブ系の番組だったんで、より印象付けやすかったです。
“人がやったことがないことなら、むしろやりたい。この世にないのであれば、生んだ方が面白いと思ってしまうんです。”
0から1を生む——「苦しんだことはない」が、僕の答え
Q. これまでの活動の中で、最も苦しかった時期はありますか?
難しいですね。ある意味では、ずっと苦しいです。
僕は、人がすでにやってきたことをそのままやるよりも、「0から1を生むこと」に一番やりがいを感じるタイプなんです。
0から1をつくるということは、前例がありません。「こうすれば正解」というものもない。その先に何があるか、どこまで行けるかも分からない。
だから、その瞬間瞬間は苦しいと思います。
でも、自分がやりたくないことを家族のために続けていたり、自分を押し殺して仕事をしていたりする人を見ると、「自分は全然苦しんでいないな」と思うんです。
僕は基本的に、自分がやりたくないことをやってこなかった。
やりたいこと、楽しいと思うことを選んできました。
もちろん、楽しむまでの過程には苦しいこともあります。でも、「苦しかったですか」と聞かれたら、もしかすると「苦しんだことはない」が僕の答えなのかもしれません。
Q. 挑戦を続ける中で、仕事に対する価値観は変わりましたか?
その都度、変わっていると思います。
ただ、「自分がやりたいことをやりたい」「自分が楽しいと思うことをやりたい」「自分が心地よいと思う人たちと仕事をしたい」という部分は、昔から変わっていません。
一方で、経験や知識が増えるほど、それによって視野が狭くなることもあると思っています。
知らないからこそ、無謀に一歩を踏み出せることってあるんですよ。
でも知識がつくと、「こうなったらどうしよう」「このリスクがある」と考えるようになって、足が止まることがある。
知識はもちろん必要ですが、時には恐怖にも変わる。
だから、年齢を重ねても視野を狭めず、若い感性から離れ過ぎないようにしたいと思っています。TikTokやYouTubeなど、若い人たちが触れているものにも、なるべく自分から触れるようにしています。
“「東京は僕じゃなくてもいい」と思うんですよね。”
「人を楽しませる」は生きがい——大切にしているのは「空気感」
Q. YO!YO!YOSUKEさんにとって「人を楽しませる」とは?
もう、生きがいだと思います。
僕がやっていることは、人に何かを感じてもらえなければ意味がないと思っているんです。
「楽しい」というのも、単純に笑うことだけではありません。感動だったり、切なさだったり、人の喜怒哀楽に何かを届けることだと思っています。
例えばラジオを聴いてくれる人も、スタジアムに来てくれる人も、自分の人生の貴重な時間を切り取って、僕らに渡してくれているわけですよね。
数多くある選択肢の中から僕らを選んでくれたのであれば、その時間をできる限り最高の時間にして返したい。
そうでなければ、自分がそこにいる意味はないと思っています。
Q. スポーツDJやMCとして、特に大切にしていることはありますか?
一番は「空気感」です。
20歳くらいの頃から、海辺のステージや子ども向けのイベント、スーパー銭湯の宴会場で行われるカラオケ大会まで、本当にいろいろな場所でマイクを握ってきました。
ラジオも長くやってきましたし、グランパスのスタジアムDJも20年以上続けています。
スタジアムくらいの規模になると、一人ひとりの顔を見ることはできません。でも、そこに集まっている人たちがつくっている「空気」は感じることができます。
その空気をどう最高潮に持っていくのか。
僕は、そのための手段として言葉を使います。言葉の選び方、発するタイミング、声のトーンを変える。
自分自身も音楽や照明と同じように、場内演出の一つだと考えています。
お客様が、その瞬間をエンターテインメントとして最高に感じられるようにする。そのために空気を読むことは、ずっと大切にしています。
人生だけは、ずっとギャンブル——挑戦し続けてきたこと
Q. これまでの活動を振り返って、ご自身の一番の強みは何だと思いますか?
経営者として見れば、世の中には僕よりはるかにすごい方がたくさんいます。タレントとしても、全国や世界で活躍している方と比べれば、僕はローカルのタレントです。
では、自分が自負できることは何だろうと考えると、「挑戦し続けてきたこと」なのかなと思います。
僕はギャンブル自体は好きではないんですが、人生だけはずっとギャンブルしているような感覚があります。
「こっちに賭けた方が面白いんじゃないか」
「みんながこっちを選ぶなら、自分は逆を選んだ方が面白いんじゃないか」
そんな選択をずっとしてきました。
昨日までAと言っていたのに、翌日にはBと言っていることもありますから、周りはかなり振り回されていると思います。
それでもついてきてくれているメンバーには、本当に感謝しています。
僕は、人がやったことがないことなら、むしろやりたい。この世にないのであれば、生んだ方が面白いと思ってしまうんです。
Q. さまざまな人と関わる上で、大切にしていることは?
「相手との距離感」ですね。
僕自身、インタビューをする仕事も多いんですが、自分から扉を開かなければ、相手も扉を開いてくれないと思っています。
当たり障りのないインタビューはしたくない。
「僕だからこそ見せてもらえる表情」や「僕だからこそ引き出せる言葉」を届けたいと思っています。
でも、自分よがりに踏み込んでしまえば相手を傷つけてしまう。だから距離感はきちんと見る。その上で、行けると思ったところにはアグレッシブに入っていく。
最終的に「YO!YO!YOSUKEだから安心して委ねられる」と思ってもらえる関係をつくることを意識しています。
一方で、身近なスタッフのマネジメントについては、自分自身の課題だと思っています。
思いが強い分、直接マネジメントすることは得意ではない。自分の個性を殺さず、それでも周囲とどう向き合っていくか。
そこをもっと上手くできるようになれば、経営者としても一段成長できるのではないかと思っています。
ナンバーワンより、オンリーワンを——プロデュースへ
Q. タレントから、育成やプロデュースへ。意識が変わったきっかけは?
20代の頃は、とにかく自分が目立ちたかったんです。
YO!YO!YOSUKEとして、全国の頂を目指して山を登っていくような感覚でした。
でも30歳を超えた頃に、「名古屋にとどまる」と決めたことで、少しずつ視野が変わってきました。
自分一人でできることには限界がある。それなら、自分が出会ってきた人たちと何かをつくる方が、自分には合っているんじゃないかと思うようになったんです。
30代半ば頃から、本格的にプロデュースに取り組むようになりました。
名古屋でアニメを作ろうとした時も、僕自身が全部を作れるわけではありません。ファンの方、業界関係者、お金を出してくれる方など、いろいろな人に声をかけて、一つのプロジェクトを起こしていく。
そういう旗振り役は、もしかすると自分だからできることなのかもしれない。
一人のタレントとしてナンバーワンになることよりも、自分にしかできないオンリーワンのことをつくり、それが結果としてナンバーワンになっていく。
その方が自分は嬉しいんだ、と気づいたんです。
Q. タレントを育てる上で、大切にしていることはありますか?
正直、「分からない」が答えです。
分かっていたら、僕の下から僕を超えるスターがもう出ていると思います(笑)。
自分がやってきたことを言語化して、スキルとして伝えることはできます。
ただ、タレントに一番必要なのは「セルフプロデュース」だと思っています。
誰かに言われたからやるのではなく、「自分をどうつくっていくのか」を自分で考える力です。
これはタレントだけではなく、これからの時代に必要な主体性や自主性にもつながると思います。
以前は手塩にかけて育てるような感覚でしたが、今はあえて距離を置くこともあります。
すべてを用意すると、そのレールに乗るだけになってしまう。自分で何とかしなければならない状況になることで、自分から動き始める子もいます。
それぞれが自分自身で考え、自分の足で進めるようになること。それを今は試しながら見ています。
TYK=太陽のように輝く——それぞれが太陽になればいい
Q. TYK Promotionとして、大切にしているものは何でしょうか。
『太陽のように輝く(Taiyo no Yoni Kagayaku)』の頭文字から取っています。
僕にとって、何かをつくる時には「太陽」というものがずっと中心にあります。
「太陽のように輝く」といっても、その輝き方は人それぞれです。
ただ、自分だけが輝くのではなく、周囲を照らす存在でありたい。
そして、日の出のように何かを「起こす」。0から何かを立ち上げていくという意味でも、自分の中ではつながっています。
名古屋という土地から、エンターテインメントを使って街をもっと面白くしていく。
僕一人ではなく、それぞれがそれぞれの太陽になっていけば、輝く人をもっと増やしていける。
その先に、僕たちがやりたい「面白い街・名古屋」につながっていけばいいなと思っています。
「東京は僕じゃなくてもいい」——名古屋にこだわる理由
Q. なぜ、そこまで「名古屋」にこだわるのでしょうか。
僕自身、食べていけなかった時期から今まで、ずっと名古屋で活動してきました。
だから、今こうして後進を育てたいと思っていることも含めて、全部「名古屋で生まれ、名古屋で育ち、名古屋で活動してきた自分」だからこそあるものだと思うんです。
全国を目指した方がいいんじゃないか、東京へ行った方がいいんじゃないかと思うこともあります。
でも、「東京は僕じゃなくてもいい」と思うんですよね。
僕だからこそ名古屋にこだわって、最終的に何かが名古屋に残るようにしたい。
名古屋は「住みやすい街」とよく言われます。程よく都会で、程よく田舎で、生活するにはすごく良い。
その一方で、僕はエンターテインメントを使って、そこにもう少し「面白さ」を加えたいと思っています。
住んでいる人たち自身が、「自分たちの街には、こんなものがある」と自慢できる街にしたい。
名古屋の外から、さらに言えば海外からも、「これを体験したいから名古屋へ行こう」と思ってもらえるような文化をつくりたいんです。
僕は「モノ」は作れません。でも、「コト」は作ることができます。
愛知・名古屋でしか見られない、そこでしか味わえないものをつくることに、自分の人生を使っていきたいと思っています。
Q. これからYO!YO!YOSUKEさん自身が挑戦したいことは?
今は「海外」ですね。
何をするのか、具体的な形まではまだ見えていません。
実は僕、飛行機が大嫌いなんです(笑)。若い頃は留学していましたが、その後は長い間ほとんど海外へ行っていませんでした。
ただ、自分も40代半ばになり、人生について改めて考えるようになりました。
「いつまで時間があるか分からないなら、怖いという理由だけでやりたいことをやらないのは違うな」と思ったんです。
そこから、スポーツをテーマに海外へ行くようになりました。
アメリカのサッカースタジアムや練習場を回ったり、海外のクラブやスタジアムを見たり、最新のスポーツ施設を実際に体験したりしています。
先日の北中米ワールドカップも現地へ観戦しに行き、世界最高峰の国際スポーツ大会を肌で感じてきました。
名古屋を拠点にするという軸は変わりません。
ただ、見る範囲は名古屋や日本だけではなく、世界まで広げたい。
世界を見た上で、たまたま自分がいる名古屋だからこそできるスポーツエンターテインメントをやり切る。そのための知識や教養をもっと身につけたいと思っています。
この街から、面白いことを——一緒に起こしていく仲間へ
Q. 最後に、これから出会う方へメッセージをお願いします。
今、僕が力を入れている活動の一つが「一般社団法人フィンガーズクロス協会」です。
「BALL PARK LAND」というイベントを通して、子どもたちがスポーツに触れる機会を増やし、「スポーツって楽しい」と思ってくれる子どもたちを増やしたいと考えています。
ただ、こうした活動は僕一人ではできません。
実際に、多くの企業の皆さんに助けてもらっています。その力がなければ、僕一人で起こせることには限界があります。
僕が旗を振り、そこに企業の皆さんやさまざまな人たちの力が加われば、将来の子どもたちの笑顔あふれる未来に向けた課題解決につながり、起こせることや、つくれる文化はもっと大きくなっていくと思っています。
今はまだ東海エリア、愛知県を中心とした活動ですが、子どもたちがスポーツに触れる機会の消失という課題は、全国のいろいろな場所にもあると思います。
だから、ここから少しずつ活動を広げていきたい。
そして、これから出会う皆さんにも、できればその仲間になっていただきたいです。
僕らに力を貸していただきたいですし、逆に僕らが皆さんの力になれることもあると思います。
一緒になって、この街から面白いことを起こしていけたら嬉しいですね。